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みちのく歴史紀行、大山捨松生誕地、女子教育に尽くした鹿鳴館の花

みちのく歴史紀行、大山捨松生誕地、女子教育に尽くした鹿鳴館の花
大山捨松は旧姓山川、幼名さきという。会津藩の国家老、山川尚江重固の末娘として、安政7年 (1860) 会津若松に生まれた。生誕地は、会津若松城の北東部、ほど近いところで、現在は駐車場になっており、その事績を記した案内板が立っているだけである。
捨松の家は、知行1千石の家老の家で、なに不自由なく育ったが、慶応4年 (1868)、戊辰戦争が勃発し、この年の8月には、新政府軍が会津若松城に迫った。かぞえ8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝った。

文明開化期に活躍した 会津 山川家の、東大教授・健次郎、鹿鳴館の華・捨松、女子師範学校寄宿舎長・二葉(福島の専門学生画)。福島人物かるた「知られざる偉人たち」は東京の会津アンテナショップよってがんしょでも発売 nhk 八重の桜

〈主な岩倉使節団〉 岩木戸にいと多くの梅山 ①岩➡岩倉具視(公家)…正使 ②木戸に➡木戸孝允(長州)…副使 ③いと➡伊藤博文(長州)…副使 ④多くの➡大久保利通(薩摩)…副使 ⑤梅➡津田梅子…女子留学生 ⑥山➡山川捨松…女子留学生 ☆女性5名。団琢磨・久米邦武・中江兆民は留学生。

産経朝刊6P、"津田 梅子" 東大教授 本郷 和人。④ 明治15年、梅子は私立女学校を卒業し日本に帰国。山川捨松は陸軍元帥 "大山 巌"と、永井繁子は海軍大将 "瓜生 外吉"と結婚。しかし、梅子は生涯独身を貫いた。明治16年、"伊藤 博文" と再会…

151年前の今日。1871年12月23日、欧米諸国視察と条約改正交渉を目的とした岩倉使節団がアメリカに向けて旅立ちました。一行は初めての女子国費留学生5名も帯同しており、その一人・山川捨松は後の東京帝大総長・山川健次郎の妹です。捨松は留学生仲間…

明治初期にわずか7歳で渡米。良妻賢母が当たり前の時代に女子高等教育に尽力。生涯独身であった津田梅子。同じく女子留学生であるが、異なる人生を選び歩んだ山川捨松と永井繁子。良妻賢母を貫いた捨松、音楽家、妻、母として生きた繁子。三者三様の生き…

明治初期にわずか7歳で渡米。良妻賢母が当たり前の時代に女子高等教育に尽力。生涯独身であった津田梅子。同じく女子留学生であるが、異なる人生を選び歩んだ山川捨松と永井繁子。良妻賢母を貫いた捨松、音楽家、妻、母として生きた繁子。三者三様の生き方を軸とした映画化希望。平凡社新書。

大山巌・捨松(山川咲子)夫婦は、巌の薩摩弁がわからなかったので、英語・仏語で会話をしたと言われています。 でも、本当は、会津戦争で、薩摩兵に友人・知人を殺された捨松が、薩摩弁を聴きたくなかったためではないかと私は思っています。 英語・仏語がで…

大山巌・捨松(山川咲子)夫婦は、巌の薩摩弁がわからなかったので、英語・仏語で会話をしたと言われています。 でも、本当は、会津戦争で、薩摩兵に友人・知人を殺された捨松が、薩摩弁を聴きたくなかったためではないかと私は思っています。 英語・仏語ができるのに、薩摩弁を聞き取れないわけがない

九段坂公園には、大山巌・元帥陸軍大将の銅像があります。 大山大将は薩摩藩出身、奥さんの山川咲子(大山捨松)は会津藩重臣の家の出身。大山大将が咲子に惚れてしまい、山川家では薩摩出身の人と結婚させたくなかっ…

九段坂公園には、大山巌・元帥陸軍大将の銅像があります。 大山大将は薩摩藩出身、奥さんの山川咲子(大山捨松)は会津藩重臣の家の出身。大山大将が咲子に惚れてしまい、山川家では薩摩出身の人と結婚させたくなかったのですが、大山の情熱に咲子も動かされ、結婚しました。

大山捨松(山川捨松)はアメリカ留学に際してわざわざ改名してますね(もとは山川咲子)

巌の姉は、女に学問は要らぬ、という持論だった。巌の先妻が病没したあと、一時期は巌の娘たちの子育てを担っていたが、巌とは教育方針が異なる。その状況を見かねた吉井友実が巌に再婚を勧め、帰国子女だった山川捨松との縁が生まれた。周囲は反対一色に染まり…

小説「らんたん」の余韻に浸り過ぎて、大河ドラマのキャストを妄想してみた 河井道・新垣結衣 一色ゆり・黒木華 有島武郎・松下洸平 新渡戸稲造・本木雅弘 一色虎児・大谷亮平 津田梅子・工藤夕貴 大山捨松・真矢ミキ 山川菊栄・戸田恵梨香 平塚らいてう・白石聖 広岡浅子・波瑠 村岡花子・吉高由里子

なんでいちいちいっちょがみしてきはるんかという感想もあるけど、そもそもこの方が日本?の映像界でやたら使われたはるのはなんでなんやろ? 山川捨松の登場シーンはほんま衝撃やった。 水原希子さんのMeToo 性被害のない映画界へ「声上げ一歩を」:朝日新聞デジタル #